気付いたら私は、何も知らない彼のことを愛してしまっていた。
それは決して、失恋の傷みから逃げたかったからじゃなくて。
ルックスがいいと思ったのは事実だけど、それは単なるキッカケにすぎないと思う。彼に惹かれてる何よりも大きな理由は、私がこれまで歩んできた退屈な人生において、出逢ってきた男たちが、みな頭が固く退屈な男ばかりだった…そんな私にとって、京極は今までに出逢ったことのない空気感を纏っている男性だったから…っていうのが一番しっくり来るかもしれない。
すごく紳士的で穏やかな振る舞いなのに、どこか危険な香りがして、何かを秘めているようなミステリアスな瞳…その瞳に見つめられただけで二度と引き返せなくなってしまうような…それは、まるで心を蝕んでいくドラッグのよう。
京極と出逢ってから2週間が過ぎた。
この2週間、いろいろなことがあったけれど、私達はごく自然な関係になりつつあった。昔から知っている友人のような…いや、友達以上、恋人未満のほうが的確な表現かも。
過去の恋を忘れきった訳じゃないけれど、傷付きボロボロだった心は、京極と出逢ってから急速に潤いを取り戻し、今は小さな幸せで満たされている。
京極と一緒にいるだけで胸の奥が温かくなって、何もない時間でも自然と笑みがこぼれている気がする。
このまま、何もかもが上手くいって、ずっと……ずっと一緒にいられるような気がしてたのに…。
「リサ、最近明るくなったよね…何かいいことでもあったの?」
サンドイッチとブレンドを乗せたトレイを運びながら、興味深そうに形成外科のアンジーが訊ねてきた。
時計の針はどちらも、まもなく文字盤の2に差し掛かろうとしていた。
少し遅めのランチタイムに、私とアンジーは病院のフードコートで久々に合った休憩時間を利用して近況報告を始めた。
「うん…なんかね、例のあの人と最近いい感じなんだ。おかしいよね、まだほとんど知らないのに。」
「そうだと思ったわ!いいじゃない、恋なんて理屈じゃないんだから。向こうもマンザラじゃないんでしょ?」
サラダを口に運びながら、京極のことを思い描く。
「うーん、どうなんだろ。彼はまだ記憶もないし、ふわふわしたような感じだから…よくわかんないよ。」
「あら…やっぱり記憶障害が残っちゃったのね。まぁ、あの箇所にあんな傷があったのだから…生きてるだけでも奇跡よ。記憶が飛ぶのも無理はないと思うわ…。」
「でもね、アンジーの言ってた通り、やっぱり凄い人だったよ。こんなことカミングアウトするの恥ずかしいんだけどさ…」
「なになに?アブノーマルな夜でも過ごしちゃったワケ?(笑)」
「もう!人が真面目に話してるのに!」
「フフ、ごめんごめん。で、どうしたの?」
「実はこないだ、暴漢に襲われかけたの…。」
「え、なにそれ…それでそれで?」
「うん…彼が探しに来てくれて、助けてくれたの。でも、十数人もいたギャングを一瞬でやっつけちゃって…自分でもわからない、身体が自然と動いたって言ってるんだけど、本当に凄かったの。」
「アメージング!ヒーローみたいじゃない!彼、夜中に全身タイツみたいなコスプレして空を飛んだりしてたんじゃないの…スパイ●ーマンみたいなね?(笑)」
「いや…糸は出してなかったから…。」
「でも、悪党に正体がバレて、襲撃されて記憶をなくした…ありそうな話じゃない。恋人がヒーローだなんて、素敵ね。今度、ちゃんと紹介して頂戴よ。」
まさか。京極がヒーロー?もしそうだとしたら、私、すごい人拾っちゃったな…まるで夢物語だよ。
その日の夜──
「ただいま。」
「おかえり、リサ。」
廊下を抜けてリビングに入ると、京極はキッチン越しに出迎えてくれた…けど、あることに気がついた。
「ちょ、ちょっと京!どうしたのその頭!?」
「ん?ああ、これ?うっとおしかったから、自分で切ってみたんだ…変か?」
京極の鼻の下ほどまであった長い髪が、眉毛にかかるくらいの長さになっていて、ずいぶんと幼くなったような気がする。
──そういえば、京極って一体いくつなんだろ…。
「ううん、なんだか可愛くなったね(笑)」
「可愛く?オイオイ、勘弁してくれよ。」
こんな他愛のない話をしている時が、今の私には何よりの幸せだった。
「京ってさ、自分が何歳だか覚えてる?」
「年…か。いや、わからない…ただ、二十歳は越えてると思う。当たり前か。」
「どうだろ…その髪型だったら、18歳ぐらいに見えなくもないよ?」
少し意地悪な笑みを浮かべて京極をからかってみる。
「フッ…じゃあ、リサのこと、姉さんって呼ぼうか?」
京極って、まだ記憶がないから、こんなに冷静というか落ち着いてるのかな…ジョークを言ってるときでもクールなんだから。
京極のこと、知らないことばかりだけど…これからゆっくり知っていけばいいよね…。
ジリリリリ
二人の時間を邪魔するかのように部屋の呼び鈴が鳴った。
「…はい?」
『夜遅くにすいませんね。私、FBIのニコラス捜査官という者ですが…今、少しだけお話を聞かせて頂けませんかね?』
──FBI?まさか…京極のこと……?
「あ、あの!すみません、少し待って下さい!」
(京極!ちょっとの間、バルコニーに行ってて!)
インターホンを手で押さえ、小声とジェスチャーで窓辺に佇んでいた京極に促す。
「ん?ああ、わかった」
京極が外に出ていくのを見送りながら、オートロックを解錠する。そしてすぐにバルコニーの扉の鍵をかけてカーテンを閉めた。
コンコンコン
ドアを軽くノックする些細な音にビクッとなる。
覗き穴で外の様子を気にしながら、玄関の扉を開けた。
「お忙しいところすみません」
瀕死の京極を見つけてから、2週間が過ぎている。警察じゃなくてFBIが先に来るなんて…京極のことじゃない?
事情聴取だったら近所なのだからもっと早くに来ているはず…一体どんな話なのだろう。
「ここじゃ何なんで、中に入ってもよろしいですか?」
「え、あ、はい…どうぞ……」
ニコラスと名乗ったFBIの捜査官は年齢的には30代半ばぐらいで、白人。ブロンドヘアは綺麗にまとめられ7:3で分けられている。見た目はキッチリとしていそうだけど、ベテランというよりは未だに現場に駆り出されるような末端の捜査官のように感じた。取り立てて言える特徴といえば、190弱ほどありそうな身長だけだった。
ニコラスは部屋を見回しながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
「実は2週間ほど前にですね…連邦議会のジョージ・エドワーズ議長のご令嬢、マリアさんが暴行された挙げ句、舌を切られて殺害されたんですよ。で、その犯人と思われる男が同じ日にこの近辺で倒れていたという目撃証言がありましてね…何かご存知ないかと思いまして」
──そ、そんな…京極がそんな……何かの間違いじゃ…。
「……おや?どうされました?顔色が優れないみたいですが?」
何を言われても平然とポーカーフェイスを装うつもりをしていた。でも、ダメだった…自分でも頭のてっぺんから血の気が引いていくのがわかるぐらいに、私は動揺し、青冷めていた。
「い、いえ、大丈夫です…ただ、そんな話を聞いたら、怖くて一人じゃ歩けないなと思ったので」
なんとか上手く誤魔化せたかもしれない。
このまま、突っ込まれなければいいのだけど。
「そう…ですか。では、何もご存知ないということですかね?」
「はい…夜中に出歩くことなんてないので……」
「おや?おかしいですね…どうして犯人が夜中に倒れていたってことを知ってるんですかね?私は夜中なんて一言も言ってないんですけどねぇ」
──しまった…!?
「そ、その、人が倒れていて、あまり大騒ぎになってないなんて、夜中だったのかなって勝手に思い込んでたから…」
「もういいだろう。男をどうしたんだ?今、話せば、罪には問われないようにしてやる。さあ、どこに隠してる?」
私のミスを見抜いたニコラスは急に高圧的な態度になり、私の腕を掴んで、京極の居場所を吐くよう迫ってきた。
──京極、ウソだと言って…あなたがそんな……
どうしようもないという絶望感と京極への想いが込み上げてきて、目頭が熱くなる。
「わ、私は……」
もう諦めるしかない…愛した相手が殺人鬼なんだもん。いずれは別れが来る運命だったんだ。殺人鬼の京極をかばって私までが罪人扱いになるなんて馬鹿げてる。自白したほうが…いや、するのが当然だ。
「ウソをついてすみません…あの日の夜、この近くでたしかに男が倒れているのを見つけました。男は頭から酷く血を流し、意識を失っていました…」
「ほう。それで?」
「ただの怪我人じゃないのは見ればわかったので、変なことに巻き込まれるのは面倒だと思い、私はそのまま彼を無視して家に帰ったんです」
「な…んだと?それじゃアンタは男を見ただけで、何もしてないって言いたいのか?」
「はい。何もしてません。居場所も知りません」
「ほほう…そうきたか。ならば、こちらにも考えがある。ただの殺人事件であれば、こんなことはしないのだが、連邦議会の議長が関わってる件だ…我々はどうしても早急に真実を突き止めなければならなくてねぇ…少し手荒な手段になるが、致し方ないな」
そう言ってニコラスは立ち上がるなり、テーブル越しから長い腕を伸ばして私の腕を掴み、無理やり引き上げた。肩の関節が外れそうになるくらいの激痛が腕全体に走る。
「や、やめてください!痛い!!」
「私は独身でねぇ…色々なフラストレーションが溜まってるんだよ。ちょうどいい機会だ。少し私の相手をしてもらいましょうか」
さっきまで真顔だったニコラスは気持ちの悪い笑みを浮かべながら、スラックスのジッパーを下ろし始めた。
「キャーーー!!」
ギャングに襲われた時より脳が危機感を感じたのか、気付いた時には大声で叫んでた。
その瞬間だった──
カーテンの向こう側の閉ざされていたバルコニーのガラス扉が激しい音を立てて粉砕され、奥から京極が室内に向かって飛び込んできた。
その音に驚いたのか、ニコラスは私の腕を放し、すかさず懐のホルスターに手を滑り込ませる。
放された勢いで、後方に引き寄せられる私の体は自由が利かずそのまま背後の椅子とともに床へと転倒した。痛さはない…今はそれどころじゃなかったからだと思う。
京極は踏み込んできた勢いそのままに、キッチンのカウンター裏まで転がり込んで姿を消していた。ニコラスが銃を抜き構えた時には、すでに京極の姿は誰の視界にもなかった。
「だ、誰がいるんだ…まさか、例の犯人じゃないだろうな…?!」
ニコラスは警戒を解くことなく、キッチン側に銃を向けたまま、目を血走らせて尋ねてきた。
私は私で、何が起きたのか事態について行けず、もはやニコラスの言葉など私の耳には届いていなかった。
私が我に返ったのは、その5秒後だった。
断末魔に似た、おぞましい叫び声が部屋全体に響いたからだ。
落としていた視線をゆっくりとニコラスの顔の方に移すと、まるでダーツがブル(中央)に刺さったみたく、ニコラスの胸元あたりド真ん中に包丁が綺麗に真っ直ぐ突き刺さっていた。
叫び声が途切れると、ニコラスは膝からゆっくりと崩れ落ち、そのまま床に吸い込まれるように静かに倒れた。
あまりに刹那のことすぎて、まだ私の時間軸はズレている。京極が私の肩をポンと叩いて、テーブルの反対側──ニコラスがいた場所で立ち止まった。その姿は、決して悪人のものではなく、むしろ迫る危機にまたもや救いに現れてくれたヒーローそのものだった。
でも……相手はFBI。京極が過去に犯した罪を戒めるべく現れたFBIもまた罪を犯してでも京極の行方を探ろうとして京極に戒められた。何が善で、何が悪という概念なのか、わからなくなる。
「すまない、リサ……君の悲鳴を聞いたら、居ても立ってもいられず、気付いた時には体が動いて手から包丁が放たれた後だった…」
「ううん、助けてくれてありがとう」
張り詰めていた緊張と恐怖の糸が切れた。
「リサ…もう大丈夫だ。」
そう言って、京極は静かに私を抱き寄せてくれた。
京極が着ていたグレーのスウェットの胸元がジワジワと色を変えていく。
これからの二人の未来が、まるで何かに侵されていくかのように……。