“ただいま電話に出ることができません。ピーという発信音のあとにメッセージをお願いします。”
ピー
”嵐…?さっきはごめん。やっぱり私が間違ってた。おかしいよね…あれだけお姉ちゃんの仇を討とうとしてた私が、お姉ちゃんが生きてるってこと、信じないなんて。……家で待ってるから。いつでもいい…会ってもう一度ちゃんと話がしたいの…じゃあ、おやすみ…。“
俺の携帯の中では、寂しげな声で綾乃のメッセージが流れていた。しかし、着信を無視して風呂に向かった俺はそんな内容など知る由もなく、あろうことか星空の下、露天風呂で…とうとう美波と一線を越えてしまった。
越えてはいけない線と知りながら…そして、響子や綾乃に罪悪感を感じながら。
「……これで満足?」
「ああ、上出来だねぇ…やればできるぢゃん。」
「だったら、早くお姉ちゃんに会わせて。アンタとこんな密室に長時間いたくないから。」
「オイオイ…可愛い顔してツレねぇなぁ。わーったよ…とりあえずだな、空港に向かってそのまま合衆国ネバダ州に飛べ。俺は今からお宅で嵐を待つ。だから、着替えや必要なものは現地で調達するんだな。」
「はぁっ!?ちょ、ちょっと待ってよ!ネバダ州って何よ?!お姉ちゃんはネバダ州にいるワケ?」
「ああ、そうだぜぇ?インターネットってスゲェよなぁ…海外の様子も生中継できちまうんだからよぉ!」
――完全に予想外だった…お姉ちゃんがまさか米国にいるなんて。今このまま米国に飛んでも、私一人じゃお姉ちゃんを助けるどころか、自分の身すら守れない……一体どうすれば…。
「嵐ちゃん…私のこと、好き?」
「ゲホッゲホッ!な、なんだよ急に…そりゃまぁ……美波のこと、その…なんていうか…」
風呂を出て、しばらく余韻に浸りながらソファで寝っ転がって一服していると、ソファのアームレストに腰掛けた美波が上から覗き込んで訊ねてきた。
また、あの瞳だ…。
まるで、ギリシア神話に登場する見た者を石に変えるというメドゥーサのような…そんな魔力を宿らせたような亜麻色の深い瞳で、俺をじっと見つめている。
「……“愛してる”って言って。」
「な?!な、何言ってんだよ……そんな恥ずかしいこと言えるわけ……」
言葉を濁す俺の情けない反応にも容赦ない美波は、全く退こうとする気配もなく、黙ったまま、ただじっとこちらを見つめている。
「あ、あ、愛…してる……。」
「フフフッ…もう一回言って♪」
「な、バカ…何回も言わねーよ!」
…とはいえ言ってしまった。もう…後戻りはできないんだと、先程の露天風呂での出来事よりも今、言葉にしてようやく、思考がその現実に追い付いてきた。
それから間もなく、ベッドに移った俺達は横浜から京都での長い一日の疲れから、特に言葉を交わすこともなく睡魔に誘われて眠りに就いた。
深夜 AM 2:09
――うぅ…。
冷房が切れたのだろうか。
朦朧としながらも、寝苦しいほど暑さにうなされている自分の声で目が覚めた。その暑さはまるで自分が犯した罪の業火に身を焼かれているような…。
――って、オイオイ!ウソだろ…。
真っ白い壁紙で覆われていた部屋は、灯かりが反射して煌々とオレンジ色に染まり、入口が激しい炎に包まれている。目覚めてようやく気付いたが、部屋の外――廊下では他の宿泊客もしくは従業員の声だろうか…多方から悲鳴が聞こえる。しかし、そんなことよりも気になったのが、隣で眠っていたはずの美波の姿が見当たらないのだ。
「美波!どこだ!いたら返事をしてくれ!」
返事はない。悪い予感がした。
炎の勢いからして、ここで考えている時間はあまりない。ひとまず、枕の下の銃を取って美波を探そうと思ったのだが、ない…枕の下に潜ませていた銃が。
――まさか…美波?
とにかく入口からの脱出は難しい。美波がこの炎の原因でなければ、まだこの部屋のどこかにいるはず…いるとしたら露天風呂のあるベランダから外に出ているのだろうか。ベッドを飛び降り、化粧台に置いていたジャケットを掴んでベランダへ走った。カーテンを退かせ、ガラス戸を開けると眼下に露天風呂…そして、その先には……
「リサ…お前は何も悪くない。あの頃の俺は本当にどうかしていた。今の今まで迷惑をかけて本当にすまなかった。」
「……モウ…モドレナイヨ。」
力なき口調で言葉を漏らした後、リサの目付きが獣のような血に飢えた色へと化した。
だらんと垂れていた両腕は4分の1の球体をなぞるかのように弧を描き、俺のいる前方へと垂直に銃を突き出した。もう話しても通じる気配はない…そう察知し、近くにあった高さ150pほどあるアルミ製のインテリアライトを掴んで、銃撃される前にリサに向けてブン投げた。
槍のように飛んできたライトを腹部に受け、リサは背後へ吹っ飛んだ。昔の女とはいえ、もはや容赦する余裕はない。相手は完全に理性を失くした野獣同然なのだ。
レジ台に叩きつけられ、グッタリとするリサへと走り込み、両腕から銃をもぎ取る。
「真希!!手錠を貸してくれ!」
返事もなく、姿を見せることもなく、ただ手錠だけが ザザザッと音を立てて床を滑ってくる。
ハハハ…どうやら、ご立腹のようだ。後でこってり絞られるらしい。
リサの痩せ細った青白い手首に手錠を掛けると、リサはその場で崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「…ワタシト……」
「え…なんだって?」
リサが呟いた一言はあまりに弱々しく、ほとんど聞き取ることがどきなかった。しかし、何か様子がおかしいことにすぐに気付いた。カチッという音とともにリサの奥歯の位置にあたる頬が内部から赤く光り点滅し始めた。
――お前……そこまで…。
「爆弾だっ!!全員急いで外に出んだ!!」
爆破までどれほどの時間があるかもわからなかったが、そう叫ぶことしかできなかった。俺の言葉で一気に店内が大混乱に陥り、我先にと人間の醜い生への執着が浮き彫りになる。押し寄せる人波の中、俺はリサに言葉をかけた。
「リサ…お前が俺のことを憎んでるのはわかる。本当にすまない。だが、道連れにするなら、俺だけにしてくれないか?最後まで付き合ってやるさ…それがせめてもの償いになるのなら!」
もはや抵抗する力すら残っていないのか、項垂れているリサを無理やり立たせて肩に腕を回し、歩き出そうとすると、吐息混じりの言葉が耳をかすめた。
「Kyo, I truly am sorry...I could see you and was glad...」
振り絞って告げられた言葉に呆然としていると、リサは俺の腕を振り払い、一瞬、笑顔を見せたかと思うと、店を出ようとする人波に逆らって厨房のある奥へと駆け出した。
「待てよ!お前一人に寂しい思いは……」
手を伸ばして引き留めようとしたが、指先がリサに触れる前に襟元を後ろから掴まれ、引き寄せられた。背中から聞き慣れた力強い鼓動が聴こえる。
「京…お願いだから、もう馬鹿なマネはしないで…お願い。」
それは、凶悪犯をものともしない検挙率No.1の刑事のものではなく、か弱ささえ感じられる一人の女の声だった。そんな悲痛な叫びに、俺は言葉が出なかった。
リサの姿はもう見えない…だが、このまま店内にいれば無傷では済まなさそうだ。俺は真希の手を取り、急いで店の外へと飛び出した。
次の瞬間、店の奥から閃光が走り、窓ガラスという窓ガラスが全て破砕し吹き飛んだ。
なんて後味の悪い命拾いの仕方なんだろう。結局、俺は何もできなかった。何も。
命の恩人であったリサに恩を仇で返すようなことしかできなかった。
悔しさを噛み締めていると、頬に雫が降ってきた。堰を切ったかのようにシトシトと大空が涙を流し始めたのだ。俺の頬は濡れ続けていたが、それがこの雨なのか、瞳から溢れ出たものなのかは、もはや自分でもわからなかった。
「やっぱり尾行いてきて正解だったわ〜。ホント、ビックリするぐらい役立たずなんだから。」
何者かも判らない声が背後から聞こえてきた。その声にいささか苛立った俺は感情をあらわにして振り返った。
「誰だ…?」
「ん…あ、いたんだ?!あれ…もしかして、アナタが京極サン?」
「誰だ…と訊いている。」
「そんなしかめっ面しないで下さいよ〜。私は橘 祇園(たちばな しおん)。さっきそこで爆発した女の監視役だったんですけど…まぁ、そんなことは置いといて。ちょっとお話ししません?」
女はシンプルでありながら、綺麗に身体のラインにフィットし、高級感のある深いブラックでまとめられたスーツ姿。ルックスは…そうだな、典型的な猫顔という表現がしっくりくる。
「今、リサのこと…役立たずって言ったよな?どういう意味だ。ことと次第によっては、お前をここで殺す。」
「ちょ、ちょっとー!待って下さいよ〜!それはちゃんと二人きりになってお話しする時にご説明しますから〜!」
「私が邪魔だとでも言いたいのかしら?」
真希がすかさずツッコミを入れてくる。
「あ、バレちゃいました?そうそう、オバサンはお邪魔ですから、ちょっとの間、そこらへんで時間潰しててもらえます〜?」
「へぇ…言ってくれるじゃない。貴女、見た目の通りの馬鹿なのね。そんな内容も明かさないで京がついていく訳ないでしょう?」
たしかに真希の言う通り、この女は怪しすぎる。リサのことを役立たずと言ったということは、リサを使って俺を始末しようとしていたんじゃないのか?そのリサが失敗したから役立たずと言ったんじゃないのか?そして監視役ということは、リサを使って俺の暗殺を指示した黒幕がいる…と考えるのが妥当だ。
あえて、この女の誘いに乗って黒幕を暴くのも一つの手だが…どうしたものか。
「ヤダ、もしかしてオバサンったらジェラってるんですかぁ?オバサンのヤキモチは見苦しいですよ?でもまぁ、肝心の京極サンも冷ややかな目でコッチ見ちゃってるので、ちょっとだけ教えてアゲます♪」
怖いもの知らずとはこういう子のことを言うのだろうな…真希の逆鱗に触れまくってるとも知らずに…後で酷い目に遭わされても知らないからな。
「どういう要件なんだ…?」
「フフ…JACKAL、SECONDなどの一連の連続爆破テロの件…って言ったら興味を持ってくれますか?」
「…なに?!」
俺と真希は口を揃えて驚愕した。
「あ〜イイ反応ありがとうございますぅ。」
今までJ以外に何の手がかりもなかった俺たちだが、ここに来てその重要参考人が現れたのだ…俺は迷わず返答した。
「わかった。サシで話を聞こう。」
「ちょっと、京!また私だけ除け者にする気?!」
「そうは言っても仕方ないだろう…先方が“オバサンは邪魔だ”って言ってんだからよ。」
「アンタね……その言葉、倍返しにしてあげるから。覚えておきなさいよ。」
マジだ…目がマジだった。
「はいはい!それじゃあ、車を用意してるので、ちょっと湾岸線のドライブでもしながら…ね?」
このシオンとかいう女、完全に真希のことを挑発してるな。今の「ね?」のウインクも真希の方を向いてたような気がしたし。
複雑な思いを胸にシオンの後をついて行く俺の背後で、俺の鼓膜が反応した。それは、真希の舌打ちが聞こえたような気がしたからだ。
下品な行為は好まない真希がだ。相当怒り心頭なのだろう…無理もない。若い女に挑発されている真希を見ているのは気の毒で仕方なかった。
「さて…もういいだろう。お前の本当の目的を聞かせてもらおうか。」
真希の姿が視界から消えるくらい離れた辺りで俺は尋ねた。
「え?何のことですか?さっき言ったぢゃないですかぁ。」
「とぼけても無駄だ。俺を殺しに来たんだろ?艶やかなルックスにとスーツ、そしてラフな敬語…疑いようもないほどに好感の持てる第一印象だが、身体からはプンプンにおってくるんだよ。」
「ちょ、ちょっと!京極サン!女子に向かって、それはいくらなんでもヒドイじゃないですか!あたしが何臭いって言うんですか!?」
(ナニ臭いんだよ!とか言ったらセクハラだよな…我慢ガマン。)
「……血の臭いだよ。『京極サンですか?』って俺の存在を確認した直後から、殺しをやったことがある人間にしか判らないぐらいの微かな殺気だが、全身からうっすらと滲み出てやがる。真希は誤魔化せても、俺には判るんだよ。さ、何が目的か吐け。」
「………。」
……やはり図星か。イタイところを衝かれてダンマリを決め込むあたり、真希を挑発してた割には他愛のない。しかし、いい女なのに勿体ないな。
「……フフフ。京極サンって、ただの女好きかと思ってましたけど、意外と観察力あるんですねぇ。」
ほう…そうきたか。
「ああ、これでもJACKALの中では腕の立つ方の暗殺者だったのでね。ナメてもらっちゃ困る。」
「それは失礼いたしましたぁ。でも、京極サンの読みは半分アタリで、半分ハズレです。」
――なに……半分だと…?
「ここだけの話ですよ?私…JACKALの暗殺者なんですよね。で、あわよくば京極サンを殺そうと思ってます♪」
「なん…だと……JACKALの暗殺者…そんな馬鹿な。そのJACKALの暗殺者が何故、あわよくば俺を殺そうと思うんだ?」
「だって京極サン、アメリカ連邦議会の議長の娘さんや入院先の看護師を惨殺した犯罪者…っていうか女の敵ぢゃないですか。でもまぁ、まだ殺しませんよ。お話があるのはホントなので。」
「……フッ、面白い。いいだろう…地獄へのドライブに付き合ってやる。」
JACKALの暗殺者が嵐以外に生きていたとは…任務があって本部にいなかったのか?ありえない話ではないか。ならば、他の生存者もいるかもしれないが…。それにしても、俺に何の話があるっていうんだ…この女、読めん……。
「美波っ!!」
ガラス扉を開いた先のテラスは、縦長でおよそ12畳分ほど、露天風呂はそのテラスの中央に堀ごたつのように床に浴槽が埋め込まれている。
そして、その浴槽の向こう側に美波は立っていた……頭部に銃を突き付けられながら。
「ようやくお目覚めか……JACKALの有名人。待ちわびたよ。」
「誰だテメェ!!」
美波に銃を突き付けていたのは、線は細く華奢な体躯をしているが、その全身からは異様なほどの殺気が立ち上っていた。
「私は…そうだな……君たちJACKALの生みの親…とでも言っておこうか。」
「は?テキトーなこと言ってんじゃねぇよ…さっさと美波を放さねぇと、頭吹っ飛ばすぞ!!」
とは言ったものの、この距離では俺が撃ったとしても、アイツに命中するまでに美波も撃たれてしまうだろう。要は駆け引きだ。相手がその距離感を判っていなければいいのだが……。
「別に私は構わないが、このお嬢さんも同じ目に遭うことになる…プロの君ならそれくらい判るだろ?それとも何かな…駆け引きのつもりだったかな?」
全部お見通しかよ…嫌味な野郎だ。しかし、なんとかしなければ…火の手がもう間もなくこちらにも回ってくる……どうすれば。
「打つ手無し…といった顔だな。そんな君に一つ教えてやろう。私の目的はただ一つ…君の暗殺だ。君さえ大人しくしていれば、このお嬢さんに危害を加える気は全くない。」
「そういうことか…解ったよ。で、どうすりゃいい?」
Bang!!
「っだぁぁっっ!!」
「嵐ちゃん!!」
意味がわからねぇ…いきなり脇腹を撃ってきやがった……チクショウ。
「いきなりすまないね。とりあえず準備はこれでOK。後は君がこのまま部屋に戻って、遺体の身元確認に時間がかかるくらい、こんがりと焼き上がってくれれば私は満足だ。さぁ、部屋に戻りたまえ。」
「ぐっ…ア、アホか。美波の安全も…確かめずに…はぁはぁ……そんなこと…で、できる訳ねぇだろ……。」
「お嬢さんに危害を加える気はないと言っているだろう。仕方ない…ならば、銃はここに棄てておく。」
男は銃を露天風呂の中に放り投げた。
「ぐっ…わかった……部屋に戻る。」
――クソッ……万事休すか…。
俺が美波に背を向け、ガラス扉に手を掛けたタイミングで、上空からものすごい強風が降り注いできた。ヘリがかなり近い場所まで降下してきたのだ。
「それでは、私は失礼するよ。」
掴んでいた美波を露天風呂に突き落とし、男はヘリから垂らされたハシゴに手を掛け、まるで怪盗の去り際のようにそのままヘリが上昇していく。
「お、オイ!美波は!?ゴホッゴホッ!ここから連れ出さねぇのかよ!約束が違うだろ!!」
「私は“危害を加えない”と言っただけだ。助けるとは一言も言っていない。せいぜい二人で悪あがきしてみることだな。生き延びることができたら、また会いに来てやろう。」
そう言い残して、ヘリごと男は闇空の彼方へと消えていった。
「ゲホッゲホッ!嵐ちゃん…だ、大丈夫?」
突き落とされてずぶ濡れになった美波が湯船から身を乗り出してきた。ずぶ濡れでも可愛いな…水も滴るイイ女とはこのことか。
……言ってる場合じゃない。
「大丈夫…ではないかもな。はぁはぁ…俺のことはいいとして…部屋の中がもう、ほぼ火の海だ。」
いつガラス扉が割れて炎がこちらに進入してきてもおかしくない。部屋の床はすでに崩れ始め、崩落している。脱出経路としては、もはやここから何とかして地上に下りるしか……。だが、ここは5階……飛び降ることはできない。何か…何かないだろうか、方法が。
いや待てよ…このバルコニーもいずれ崩れ落ちる。ここは露天風呂があるから火の手が回っても、多少のことならやり過ごせるはず…。
選択の余地はない…美波をそんな目に合わせるのは気が進まないが、命を落とされるよりはマシだ。イチかバチかやってみるか!
「美波、ここからの脱出方法なんだけどさ…作戦名 “フライング・バスタブ” でいくぞ!」
「………へ?」